笠松町指定文化財(史跡)                                                                                     場所 米野

米野の戦い跡.JPG

説明


 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、東軍の徳川家康と西軍の石田三成が戦った「天下分け目の戦い」として知られています。この戦いの1カ月ほど前、池田輝政を中心とした東軍が8月22日の朝、川を渡って米野に上陸し、大勝利に終わりました。これは「米野の戦い」と呼ばれています。池田勢の一番槍となった大塚権大夫は多くの武将を討ち取りましたが、飯沼勘兵衛に一騎打ちを挑まれて討ち死にし、その飯沼も池田輝政の弟長吉に討たれました。大塚権大夫の塚は無動寺に、飯沼勘兵衛の墓は岐南町の平島にそれぞれあります。この戦いで、池田勢が木曽川を渡河する際の案内役を務めたのが円城寺の土豪野々垣源兵衛でした。野々垣一族の墓は円城寺の専養寺にあります。

*池田輝政
 豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ケ原の戦いで、東軍の武将として活躍しました。


 

 

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